U座談会 30周年記念座談会 透析30年を振り返る

一ノ清明さん 中島良明さん 田中克人さん 木村妙子さん
生年月日
S12(1937)
透析導入年月日
S45(1970)
患者会名
虎の門・高津会
生年月日
S24(1949)
透析導入年月日
S47(1972)
患者会名
長谷川病院
生年月日
S17(1942)
透析導入年月日
S46(1971)
患者会名
松和患者会西新宿支部
生年月日
S18(1943)
透析導入年月日
S47(1972)
患者会名
上野しのばず会
 普段は殺風景な事務局も、この日(2002年3月31日)は花を飾りテーブルクロスを敷き、透析歴30年の方々をお迎えする準備を整えました。 この座談会では、透析治療初期の頃の風化してしまいそうな体験や長生きの秘訣などをお話いただきました。 誌面の都合ですべてを掲載できないのは残念ですが、今でも元気に活躍されている出席者4人の興味深い話を伺うことが出来ました。

押山 東腎協が30周年を迎え、本日の記念座談会では、透析歴30年の皆様にお集まりいただきました。よろしくお願いいたします。 さて、30年間元気でいられる秘訣というのは、会員の皆さんが非常に興味あることだと思うんです。
まず、この点ですね、特に気をつけてきたことや、生活のポイントをお話いただきたいのですが。

T、長生きの秘訣

塩分と水分を普通に気をつけて

中島 きっちり透析食をやったのは最初の1年間ぐらいです。仕事をし始めてからは、水分と塩分を気をつけるぐらいで普通の食事をしていました。後は、もともと余り果物を食べなかったですから、カリウムも余り制限した覚えもありません。

押山 そうですか。じゃあ、カリウムの心配はそれほどないんですね。
中島 カリウムの問題が、当時はまだわかんなかったですからね。それに私の場合は結構動いてましたから、体重はそんなに増えなかったです。

押山 食事を薄味にするとか…。
中島 気をつける程度です。上の血圧も、ずっと120から130にキープしてきたからね。

押山 やはり水分管理は、しっかりと?

中島 そうですね。そ
れはもうその当時、機械やダイアライザーの性能が悪かったからそんなに引けなかった。

押山 今はどんどん引けますからね。

中島 今は4s5sは軽いですもんね。その当時1・5s引くのがやっとでしたね。まだキール型だったんです。

押山 塩分と水分に気をつけて、あとはよく動いて普通にということですね。

中島 それが秘訣というかどうかよくわからないですけどね、私の場合は。そうしましたね。

昔は徹底的に食事管理、でも今はデータと相談しぎりぎりいっぱい食べる

一ノ清 私もキール型で、外シャントで(水が)引けない時代です。食事については、食品交換表のようなものが一切ないんです。それでもう栄養士さんに聞きながらやっていました。蛋白質は1日30gの塩分3g、それから水が500ccしか増やしていけないなんていうような時代でしたから、4年間もう徹底的に食事管理やったんですよ。
大学ノートに食事箋を全部書いてから家内が料理して、それを残さず食べろったってなかなか食べられなかったですよ。
 だから水飲むなんていう感覚は無し、水はうがいですよね。透析も進歩してきて週3回になって、よくなってきても、いまだに気をつけているのは塩分、カリウム、それからリン。大体こんなとこですね。
水分は体が慣れてて、もう3s以上にほとんどいきません。ただ1つ言えることは、データ見ながら遠慮しないで、ぎりぎりまでいっぱい食べる飲むというようなことはやっています。元気をつけるようにしてます。

自己管理をきちっとやって、たまには好きなものを食べてリラックス

木村 私は週3回やっていただいた。ただし時間は6時間で、さっき中島さんがおっしゃったように、1・5sぐらいしか引けないんですよね。
だから「牛乳1本でお薬を3回飲みなさい。あとは水気のものはうがいだけ」で、飲むということは一切許されなかったですね。 あと氷2、3個です。
最初は乳製品を食べなさいということだったのが、途中からリンが多い乳製品がだめだということで、大好きな乳製品をやめざるを得なくて、アルミゲルが使えなくなってからはリンにちょっと苦しんでます。それまでは優等生で、データももう本当に合格だったんですけど。
最初の1、2年間というのはノートをつけて、いまだに透析ノートはつけてますけど、食事なんかも自己管理をきちっとやって、梅干しを塩出ししたというくらいです。
でもそのかわり、好きなものをちょっと食べます。絶対だめというふうになってしまうと、ストレスが溜まってしまうので、辛いものでも塩昆布だったら1枚食べるとか、そんなことでリラックスして長い間続けています。体重も3s以上は増やさないです。
そんなようなことで長生きというか、今まで来たという感じです。

美味しいものを加減して食べた

田中 私は導入したときは、透析にかかれば腎臓が治ると、初めちょっとそういう感覚ありました。でも、それがすぐに、治らないものだとわかりました。
そして食品交換表を渡されたんですね。そのときはカリウムの問題もまだわかってなかったんです。
だから、きのう一緒だった人が「あれ、今日は来ないけど、どうしたの」という感じです。どんどんいなくなってしまうんです。それがカリウムとわかり始めてから、そのカリウムの摂取量がけっこう厳しく言われ始めました。

押山 最初からわかっていたわけではないんですか。
田中 ですから最初に私が導入したとき、夕飯のデザートにバナナ1本どんと出てきたんです。それには、また感激しましたよ。そういう状況でした。
ですから、一応カリウムとそれから水分と塩分。やはり水分はそのころの、大体2sぐらいまでしか引けなかったから。私自身も今ずっと気をつけているのは、この3つです。
でも今ある程度身体がそういうふうにできてしまってるのか余り深く追求しません。塩分なんかでも、塩辛だとか極端に塩辛いものとかはなるべく食べないということで、あとは普通。多少水、みそ汁だのおしんこだのと、そういうものを制限しながら食べたり飲んだりしています。
 だから、一番気にしなくなったのが食品交換表で、きちっとやっていてもヘマトは上がらない。
結局、貧血がひどいものだから食事してても旨くないし、食べても口がすぐ疲れてしまって食欲が全然わかない。それで「もういいや」と、普通の旨いものを工夫して、味もいいものを加減して食べるようにしました。
それから体調がぐっと良くなって。それからずっと今まで、維持するようになった。

食べることにどん欲でなければだめ

一ノ清 何というんですか、食べることにどん欲でなければだめだということではないかと思います。
週3回になって時間も短くなり、水も引けるようになってきてからは、本当にもう食べることが夢のようにどん欲に何でも食べました。
だから今、この状態であるわけだから。3回の食事をきちんと食べていくということが一番大切ではないでしょうか。食べなきゃ始まらないですよね。

押山 そうですね。やはり栄養状態がよくないと長生きできない、というのが基本ですよね。

中島 普通の健康な方でも必要です。

押山 そうですよね。皆さんのお話を伺うと透析食の基本はちゃんと押さえつつ、検査結果と相談しながら食べたいものはある程度食べて…。

田中 余り気にし過ぎないということですね。

押山 そうですね。あと体を動かすこととか、意識されてる方は?
U、身体を動かす

輸血がいやで普通に食べて辛くても動くことを心がけた

田中 私が導入してから1年のうちにB型肝炎を2度やりました。貧血で輸血するからいけないんですが、「もう輸血はいやだ」「輸血なんか、もうしない」ということで、また貧血が進んできてしまう。
それにはどうしたらいいんだということで、結局、自分で食べて上げるしかしょうがない。だけど当時の透析食は蛋白が25gだとか塩分1gとかで、とてもじゃないけど全然旨くない。
そんなものだからもう極端なのは避けますけど、普通に食べて動くこと。苦しいけど、とにかく先に動くんです。
 階段なんかでも、今の駅はエスカレーターがありますけど、苦しいんだけど階段を下から一気に上がってしまうんです。
これでもう(心臓が)パクパクしますよね。上に行ってもハアハアと。そういう繰り返しをやってたんです。
そしたら、今度はおなかも減るんですよ。そうすると食べたものが今度おいしいんですよね。それが循環していったら、どんどん調子がよくなってきた。

ヘマトクリットが40%に上がった

押山 そうですか! 具体的にヘマトが上がりましたか。

田中 ええ、それから上がったんです。そのころ一緒にやってた人たちがまだ輸血して、20%維持するのにヒイヒイしていた。ところが私はもう全然そういうことがなくなっていた。
私のところに、「どうしたらそんなに上がるの」と聞きに来るんです。だから自分自身がそういうことをやったことをお話しするんですけど、「とにかく動くことだよ、動いて食べることだね」と。だけども、動くといっても苦しくて動けないではないかと。
(笑)
 とにかく僕はその繰り返しで、そうしたら昭和48年ごろでしたか25%ぐらいになっていました。そしてその年の暮れには30%に上がり、それで3、4年後ぐらいにはもう40%にいってしまったんです。

押山 エポなしで!

田中 そのころエポなんてないですから。それから、1回ちょっと上がり過ぎるので、骨髄に針をさして、これをとって培養してエリスロポエチン調べたんです。 結果はまあまあ、ほとんど普通ぐらいではないかと。低くもなく高くもなく、だから、食べて動くことが第一前提だなと思いますね。
 ところが、それまでは会社に毎日規則正しく通勤していますから良かったのですが、平成8年に会社を辞めてから、今度やることがなくなって、体の方もなまってしまうんですね。途端に体力、体調もぐっと落ちてきました。これではいけないなと思って。今またやっているんですけどね。

患者会運動にずっと携わってきたことでここまで元気でこれた

押山
 一ノ清さんはどうですか、身体を動かすことは?

一ノ清 特に意識してはないんですけども、やはり家の中にはじっとしてないということですよね。
特に毎日規則正しい運動をするとかそういうことはやってこなかったですけども、何か動いているということですね。
だから私は、この後、お話が出るかもわからないんですけども、患者会運動にずっと携わってきたことで、私自身、ここまで元気でこれたんではないかと思います。それには皆さんとつき合いさせてもらって感謝してますけど、本当にね。

押山 そうですね。ずっと患者会の活動を、特に「全腎協」でも力を発揮されてきましたね。中島さんはどうですか。

中島 やはり今考えると動いてたんですね、その当時。結構、まだ若い20代でしたから。退院してからは1回も輸血していない。
ただし退院したときはヘマトは1桁だったです、9%。もう終わkってくるとすけすけで向こうが見えるなんて言ってたんです。そこまで下がったんです。

一ノ清 9%は厳しいな。

中島 それで3本ぐらい全血輸血してました。それが最後で、全部で6本か7本ぐらいしかやってないですけどね。
それから退院してから動くようになってから、急激に食欲も出てきたし、とにかく何もしなくても自然に。あの当時20%あれば何もしなくて喜べたものですけどね。

田中 20%が目標でしたものね。

中島 18%ぐらいでまあいいね。まだ輸血しなかったですね。

田中 輸血をしてそれでやっと20%ぐらい。そうすると1カ月ぐらいでまた、すうっと落ちてしまってね。

歩くのをやめないようにと思ってます

木村 私は小学校5年のときにネフローゼで、2年半ぐらい入院したんですよね。
ですから、最初、体育というのは見学でずっときたので、もともと動かすということは余りないんですが、10年たってこのままではいけないなと思っていました。
 エポができてヘマトなんかも上がるようになって、患者会にも参加できるようになって、情報を先輩方からいろいろいただいて、元気になったと思うんですね。
それで、「あ、仕事もやんなくちゃいけない」と思って。夜間透析で働きながら患者会やってる男性の方を見て、1日おきだけでもいいけど働こうと思ってやってきたことがよかった。
それとストレッチを毎晩簡単に5分ぐらいですけどもやっています。今、左足がちょっと痛いですけども、歩くことはやめないようにしようと思っております。


V、合併症について

押山 そうですね、やはり体を動かすことも、意識も前向きですね。
 さて、「30年の長生き」ということでお話を伺ったんですけれど、やはり合併症ということもどうしても避けて通れないことがあるでしょう。今までで一番苦労した合併症や今ちょっと気になっていることってありますか。

肺腫瘍と心臓バイパス手術 生かされた命

中島 あります。私、1992年に、合併症ではないんですけども、肺の縦隔腫瘍やりまして、それで腫瘍を取って、4年後に今度心臓バイパス。冠動脈3本とも全部97%、あとの3%で生きている。それで心筋硬塞も起こさないで、そんな症状も出なかったんです。

押山 心臓がそういう状態だと聞いたときに、かなりショックは受けられたと思うんですけど、その後、今お元気じゃないですか。そのあたりの前向きな切りかえというのはどんなふうに。

中島 これしょうがないですからね。

押山 なるようになれ。

中島 もともと性格的に楽観主義っていうのか、何だかわからないですけど、あまりくよくよしないんですね。
もう前向きでそれこそしょうがないから、生かされた命なんだからね。与えられた人生だからしょうがないなと思う。
こうやって何か活動していればみんな少しでも役に立つだろうと思って。

押山 すばらしいですね、やはりあまり気にしすぎるのもいけないですね。

アミロイド沈着による痛みにはストレッチが有効

一ノ清 合併症は私自身は、心臓とか胃とか一切どこも悪くない。ただ唯一、長年の透析で、血管の中から筋肉からところかまわずアミロイドが溜まってきています。
それによって神経が圧迫されて足がしびれるとか手がしびれるとか、もうそれひとつです。

田中 長い人は今アミロイドで苦しんでいると思うんですよね。
私なんかでもそうなんですけど、まず最初に手根管をやるでしょう。手根管が出始めたのが昭和60年なんですね。最近は肘部やっているんですね。
ただそれでも、今一ノ清さんがおっしゃったように、やっぱり圧迫された神経、どこだかさっぱりわからない。
手術しょうがないですね。 こっちやってもここんところ変なふうにしびれたり、でも痛いとか何とかじゃないから、こんなもんかとか。

中島 私は起き抜けに、足なんかを上げたり、ひざを曲げたり伸ばしたり、そういう関節の運動を、朝、大体5分ぐらいしています。本当に血行が良くなるのがわかるんです。

田中 朝起きると体が固くなってますからね。

中島 だから朝痛いんですよね。

田中 朝必ず動きが悪いから起き抜けにやって、そのストレッチやって体をならして動き始める。

押山 ストレッチやるときの関節の痛みっていうのは余りないですか。

田中 痛かったら余り無理しないで、痛いところでとめて。だから最初五十肩みたいに、上がっていかなくなるでしょう。
上がらないから痛い、痛いって何もしないと余計痛くなって。とにかく僕はそうなってからストレッチを始めたんです。そうすると、逆にそれ以上痛くならないのでむしろ治っちゃう。ほかのひざでも何でもそうなんです。

押山 私も肩痛くて、動かさないとどんどん筋肉が落ちるのがわかるんですよ。いいお話を聞きました。

木村 でも無理はできないんです。1度一生懸命やったら左足の痛いところがまたさらに股関節が痛くなっちゃって困ったので、過剰はだめですけど、適当に。
 でも私の場合は20年前に手根管手術1回両手やって、その後今度、今右手がちょっとしびれてきています。

リクセルで痛みがとれた

押山 最近はβ2ミクログロブリンもよく抜けるようなダイアライザーとか、リクセルとか、だんだんよくはなってきていますね。

田中 私もリクセルをやってもらい始めてから、それまで関節の中のうずうず痛んだりするじゃないですか、結構運動してても多少そういうの出たりするんですが。
そういうのは、気にならなくなってきたんです。ということは、痛みがきっととれているんだと思うんです。

中島 血圧下がらないんですか。

田中 血圧は少し下がり気味だけど、余り気にしないです。

リンとカルシウムの骨代謝異常にはリンのコントロールは重要

一ノ清 もうひとつ合併症で言うなら、リンとカルシウムの問題で、副甲状腺の手術はしてないんですけど、骨は写真を撮ってよくこれで立っていられるねという位の骨になってるみたいです。

押山 副甲状腺の手術は皆さんされたんですか。

木村 私はしてません。PTHが上がったことないんです。

押山 皆さんまだなんですね。

木村 ただ骨密度は3〜4年前は「すごくいいですね」と言われたのが、最近撮ったらやっぱり合格しない。

田中 私も検査して最近少し骨粗鬆症域と黄色のイエローゾーンとの、ちょうどその線上にあったやつが、すっと今は入っちゃった。

一ノ清 それはいいですよ、そのくらいなら、まだ。聞くのがおこがましくて聞いてないですよ。

中島 おっかなくて、ちょっとね。

押山 やはりだんだん骨というのは弱くなってくるものですかね。

木村 だからリンとカルシウムの骨代謝異常ですか、それはもう本当に注意をしないといけないので、カリウムみたいにすぐ命に別状がないんですけど、「リンが高くても平気だよ」なんて言っている人が結構いるんですよね。だけど、それだと長い間にね。

押山 ボディーブローみたいにだんだん…。

木村 だから長生きをするためには、合併症を防ぐことができるように、今の方はちょっとリンに気をつければいいんですからね、お薬ちゃんと飲むとかね。


W、患者会活動について

押山 そうですね。そろそろ昔の患者会活動のお話を少しお聞きしたいと思います。

貧血がひどく寝っころがって会議した

一ノ清 私は昭和48年に東腎協に入ったら、即役員にされました。私は全腎協が結成されたことを、朝日新聞で見たんですよ。
 単純にこんなに制限がひどいのに皆さんはどう生活をしているのかなと思って、それが入った単純な動機なんですよ。それまで私は、組合運動も何もやったことがありませんしね。

押山 そうすると、東腎協ができてからすぐ入られたわけですね。
一ノ清 そうですね。東腎協結成は47年の11月ですから。そのときはちょっと先ほども言われたように、食事状態がよくないので、前の会社はもうクビになって社会復帰できないでいました。3、4年リタイアしていたんです。
 その間、ヘマトが低いのに全腎協の役員の人とかと一緒におしりについて歩いて、厚生省とか社会保険庁とかそういう所の交渉に、自分はわかりませんから、後についてどんどん回って勉強させてもらったんですよ。

押山 貧血がひどい中、本当に大変でしたね。

一ノ清 こういうエピソードがあるんですよね。現在はアミロイドとか骨粗鬆症で、机とか椅子でなければ患者会の会議ができないけど、昔は畳でなければできなかった。こうやって座ってたら貧血でだめだったんです。だからみんな畳に横になって、座って会議やったりいろんなことやったり。(笑)

木村 寝っころがって会議したっていうことを、よく聞きますよね。

押山 それでも、やはり自分たちの命とか医療費のことがかかってきたら、運動せざるを得なかったということがあるんですよね。

田中 そのころ先頭に立ってた人たちは大変だったよね。今、だからそれを忘れちゃいけないんだよね。みんな命かけてやってたんだからね。

木村 だから昔の厚生省で人工腎臓整備計画、5カ年計画ですか、を全腎協がお願いして、それをやってくれたから今の透析があるわけですよ。

田中 そう、家中総出で東京中の病院を探し回った、透析をしてくれるところを探してね。

中島 今じゃ考えられないね。

田中 私なんかも本人だったから、かからなかったですけど、国保の人なんかね、帰りがけに毎回1万円札出して、1000円お釣りもらって帰るんです。昔の1万円ですよ、毎回ね、そんなことしてましたね。

一ノ清 やはり患者会活動が活発になって東京都も全国に先駆けて昭和47年に助成されて、その10月には全国で更生医療ということで、患者会活動の成果が、今の透析の安心してできる環境を作っているんです。

透析患者の意識の変化

押山 中島さんなどは、3回患者会をつくられているということですけど、昔と今と患者会をつくるに当たって、患者さんの反応とか考え方というのは変わりましたか。

中島 基本的には同じなんだろうけど、ただ若い人に、手伝ってくれる人とか役員になってくれる人がいらっしゃらないですよね。昔は僕ぐらいの20代、30代の人が入ってきたから。
 ところが今のとこの病院に来て、僕が一番経験は長いんだけど、役員の中で二番目に若いんです(笑)。結局動けるのは僕かなあ。70幾つの人に副会長になってもらったり、名前だけでもいいから申しわけないが貸してくれと。

押山 確かに高齢化ですよね。

中島 それで患者会に入ってくるんだけど、やっぱり無関心の方もいらっしゃる。現実的に困らないですからね、入ってなくても。今度は食事代が取られるけれども、そういう実感がないですからね。入ってなくたって別に困らないし。
 結局、僕たちがやってきたことを話すしかないんだけども、なかなかそこのところが…。

押山 自分たち自身のための活動だということが、やっぱりなかなか理解してもらえないですよね。何か他人ごとのようですから。

中島 だれかがやってくれるんじゃないか。

押山 ありますよね。そのあたり一ノ清さん、どうですか。

一ノ清 今の世の中どうだって言い切れないけれども、昔も今も変わらないような気がしますよ。
 ただ、今、高齢化になってきて、高齢の患者に勧誘する人自体が、もう足踏みしちゃうようなとこがあって、なかなか入ってもらいにくい、というところがあるんじゃないかなと思います。

押山 そうですね、患者会の説明がわかってもらえないお年の方もいらっしゃいますし。

一ノ清 それとひとつ言えることは、昔はお互いに、同病相哀れむじゃないけれども、みんなしてどこか旅行に行こうとかいうことが最大の楽しみでいたのが、今、海外旅行でもどこでも行けるし、そういう時代になってしまって、健常者とあまり変わらなくなってきてしまっているわけです。
そうなってくると、患者会というのは二の次かなというようなことを思ってしまうんです。それではいけないと思うんですけれども。
だから、そこを説得していくというのは、もう本当至難のわざになってきてしまっているんじゃないかと思います。

患者会は他人事ではなく、自分のための活動

押山 東腎協が30周年を迎えて、今後40周年、50周年を迎えるために、これから何をどうすればいいのか。今までの患者会のあり方と少し違う意識を持って活動していかないと、なかなか広がりが出てこないのかな。

一ノ清 そうですね。

押山 木村さんは東腎協の事務局で、いろいろな患者さんに接してどうですか。

木村 患者会運動やるようになってから、事務局にも来るようになって、いろいろな勉強をすると、やはり、自分のことは自分で守っていかないと、声を出さなくてはだれもかまってくれないというか、弱い者の痛みが大きくなっていく社会のような気がするんですね。
 高齢化も、もちろんあるんですけれども。若い方にも、やはり根気強く誘っていくしかないかなと思っています。
私たちの運動によって、これから透析になる人たちの人生も決まるんですよということを言いたいと、私は本当にそうだと思うんです。だから、会員拡大というよりかは、自分たちの将来ですよということを言いたいです。

押山 自分たちの命のことですからね。もっと真剣に考えていただきたいところあるんですけど。患者会は透析患者自身の問題だという意識を持って欲しいですね。
以前のような連帯感も薄れているようだし。青年部はがんばっていますが、やはり東腎協全体として対応しなければいけません。

木村 そうですね、何か固定化した行事だけじゃなくて。何かこう広げていく方法考えなくちゃいけないなって、みんなの知恵を出し合って。

押山 こういう診療報酬が下がって食事加算がなくなってというような御時世ですからね。

木村 昔は死んじゃったら気の毒だっていう社会的理解とか何かすごくあって、すぐ運動しても人工腎臓整備5カ年計画とかやってくださって、皆さんの理解があったように思うんですけど、今は「命は地球よりも重い」が、何か見せかけの言葉になっちゃってるような気がするんですよ。(透析診療報酬の)時間制の廃止なんかもちょっとね。

長時間透析へのこだわり

押山 そうですね。時間制の廃止がこれからどう影響するか心配です。ところで、ご出席の皆さんは透析4時間半から5時間されてますよね。やはり透析は長い方が当然いいと、そういう信念は皆さんお持ちですか。

中島 珍しがられますよ。特に初めて導入の人なんかには。

押山 私も週に3回、5時間ずつやってもらっているんですけど。

田中 だからその辺とか、これからどうなっていくのか、ちょっと疑問ですよね。

押山 ですからやっぱり患者自身も、透析というのはどういうものかっていうのは、よく勉強しておかなくちゃいけないと思うんですよ。
患者会に入って情報を交換して勉強して、自分たちにいい治療を続けてもらうように病院とよくコミュニケーションをとることは、今後ますます必要になってくるんじゃないかと思うんですよね。

田中 初めに4時間ぐらいで入るでしょ。その4時間でも実際にはぴたっと4時間で終わるんじゃなくて、10分でも20分でも前に、例えば終わりましょうかっていうと喜んじゃうわけです。
ところが私らなんか逆に、何でそんな早く終わっちゃうのっていうような感じになるわけですよ。時間ぎりぎりまでポンプ回してもらって、それこそβ2(ベーターツー)の1個でも余計に引きたいんだと。それがおれのこだわりなんだと、正直。ずっと私なんか言い続けてきましたよ。

木村 そうですね、10分が3回で1週間で30分ですよね、これは大きいですよね。

田中 そうですよ。5分前に終えちゃうっていうことは、年間だと透析の回数が1回だか2回だかに相当しちゃうんですね。そういうことを考えれば、やっぱり所定の時間はきちっとやりたいと。そういうこだわりはありますね。
 それも実際に、病院側もきちっとそういうふうに対応してくれるっていうのはありがたいことですけどね。

押山 こういう社会状況のその中で、4時間半とか5時間とかやってくれてる病院は、本当にありがたいですね。この透析時間ひとつでも患者会に入って知らないと、もう3時間半でいいんだと思い込んでしまって。

中島 それが当たり前になっている患者さんは、透析経験がまだ2、3年だから全然そういう症状というか出ないよ、いきなりはね。それも当たり前だと思ってるから大丈夫だと思っでしまいますね。

押山 やはり1回2回で済む治療じゃないですからね、もう長くやる治療だから、なるべく長時間やった方がいいでしょうね。β2を1個でもというのはまさにそのとおりで。ところでどうですか木村さん、今後の東腎協活動に望むことは。

患者会があってそれに基づいて国も動く

木村 東腎協っていうのは、患者会それから幹事さん、常任幹事ということで方針なり活動がみんな決まっていきますので、やはり基礎になる患者会が充実していかないとだめじゃないかなと思うんですね。
才能のある方が・人材がいっぱいいらっしゃると思うんですよね。そういう方がボランティア精神を発揮して、東腎協の活動に少しでもいいから参加して欲しい。
常任幹事になって毎月会議に出てきてやんなさいじゃなくて、お知恵を皆さんが出してくださるようになっていけばいいなと思うんですけどね。

一ノ清 特に患者会というのは息長くやっていくもんで、華々しくやって終わっちゃうもんじゃないから、まず現状維持をしていくことがひとつと、それ以上にもう少し患者さんに医療情報とか、国の情勢みたいなことを小まめに情報を流して患者会というものの存在を皆さんに知っていただく、いろんな意味で、そういうことがちょっと必要かなと。
また、組織を大きくして、ほかの団体とも連帯してやっていくというのも必要かな思います。

押山 会報の重要性というのはますます出てくるでしょう。活動をよく皆さんに、会員全員に知ってもらうということですよね。

一ノ清 だから国が全部やってくれてるんだからと考えるんじゃなくて、患者会があってそれに基づいて国も動いてるんだとかいうことでね。今皆さんの話を聞いてそう思ったんですけどね。

押山 今日出席の皆さんや先輩の30年前からの活動があって、今の透析環境があるわけですから、それをまた会員全員がよくわかった上で、自分たちの問題としてこれからも患者会活動を続けていくということですよね。
今後ますます患者会活動を活発にしていく必要性はあるけれども、しかし、患者会活動を広げる難しさも再認識しました。
皆さん、これからもアドバイスをよろしくお願いいたします。
日曜日にわざわざお集まり頂き、貴重なお話をありがとうございました。お疲れ様でした。


(編集 戸倉振一、押山大作、木村妙子 写真 桝永照也

目次(あゆみ東腎協の30年)へ

東腎協あゆみ P55〜66


最終更新日:2003年2月11日