東腎協・全腎協の今昔物語
泉山 知威(元東腎協・前全腎協会長)
 今は昔、そう30年程前のことですが、東京都腎臓病患者連絡協議会(以下「東腎協」と称す)という会が結成されました。この会は全国腎臓病患者連絡協議会(現・社団法人全国腎臓病協議会、以下「全腎協」と称す)と協力して、腎臓病患者、特に人工透析の患者・家族の医療と生活を守るため、また腎臓病・人工透析さらに腎臓移植の知識普及と医療の進歩に役立つための多くの活動をしてきました。
 この30年を振り返り多くの倒れていった先輩患者、療友の皆様のご冥福を祈りつつ、この東腎協と全腎協の活動してきたことやそれぞれの違いなどについて、エピソードを織り込みながら話しを始めていきたいと思います。また、この物語は私が経験したことや、見聞したことを中心に書きますので、洩れがあることと思いますがそれはご容赦ください。
【腎臓病との出合い】
 私が「腎臓病」ではないかと言われましたのは、今は昔ではありますが忘れることのできない昭和47年5月29日でした。当時、私は東京都主税局という、東京都の税金を課税したり徴収したりする局の、事務の合理化や機械化を担当する部署に勤めておりました。時代の流れでこれらの仕事も「電子計算機」、そうコンピュータがその中心になりつつあった時代で、システム担当の職員などは月に100時間を超す残業をしている職場でした。

 また個人的には30歳となりどうにか生活にも自信がつき、結婚を決意して秋の佳き日を結婚式場に予約し、デートの最中には「沖縄の本土復帰」を祝うデモ行進を眺めていた頃でした。自覚症状としては、仕事が終わり帰宅するとバタンキュウという状態で、オシッコが近くなり息が切れ、デートの途中で遂に嘔吐してしまいました。彼女も心配し受診をすすめるので、職場の診療所を訪ねたのがこの「昭和47年5月29日」だった訳です。

 前日に百科事典を紐解きますと、これらの自覚症状が該当するものに「糖尿病」がありました。また、当時の職場検診は結核中心の体制で、検尿も血圧測定などもありませんので、初めての受診で大変に緊張いたしました。生れて始めての血圧測定では上が190で下が110とのこと。検尿では尿の入った試験管をもった看護婦さんが、「先生」と言って部屋に飛び込んできました。この試験管を見ると尿が「卵白」のように凝固しておりました。このただならぬ様子は今も忘れられません。先生に「腎炎だと思うので、明日にでも共済組合の青山病院へ行ってきなさい」と勧められ、翌日に青山病院を受診し、翌々日に入院となり私の闘病生活が始まった訳です。またこの頃は先生も「人工腎臓っていうものがあるらしいよ」位でした。そこで自分で「人工透析」をしている病院を探し、赤羽にある国立王子病院に転院し、10月10日から透析の開始に至ったという経過となりました。

【東腎協との出合い】
 今は昔となりましたが、私のお世話になりました国立王子病院には、すでに腎友会があり勉強会や食事指導会など活動をしておりました。透析を始めて1カ月を過ぎた私は、腎友会の牛岡貢会長(平成11年没、元全腎協副会長)から、11月19日に都立産業会館大手町館で東腎協結成総会があるので出席するように依頼され、外出許可をもらい僚友の鈴木朗さんと、雨のシトシト降るなかを出席しましたのが、東腎協との記念すべき出合いとなる「昭和47年11月19日」となった訳です。

 結成総会で印象に残っていることは、まず会員資格でもめたことでした。この時代に腎臓病患者の会ができるとの報道に、近県の患者や家族の出席も多く、「正会員…東京在住の腎臓病患者会及び患者」について討議が集中しました。これについては役員協議の後、「例えば東京都への要請で実現した施策などは、直接には恩恵を受けられないが、それを承知のうえで入会してもらう」というような趣旨の説明で了解されたと記憶しております。今でも神奈川・千葉・埼玉県などと接する地域ではご苦労の多いことと思っております。

 役員としての出会いにつきましては、翌年1月の役員会について、牛岡さんより出席を依頼され、何が何だか分からずに、ただ黙って出席していたこの「役員会」、と言うことになります。この会には一ノ清明幹事(常任幹事、元副会長、元全腎協理事)も出席しており、その後、4月3日に発行された「東腎協第1号(会報)」において、自分が役員として紹介されているのを見て、初めて役員だったのかと認識させられた次第でした。

【東腎協初期の特徴】
 今は昔、そう昭和47年11月下旬に退院した私は、同じ東京都主税局職員である東腎協初代会長の寺田修治さん(昭和49年没)を訪ね、これからの職場復帰や生活などの見通しについてお話しを伺いました。その話しのなかで1番影響の大きかったことは、「1年で1割の患者さんが死ぬと思え」ということでした。単純に計算して10年。「よし、10年を目標に頑張ろう」と私は決心をしました。私事で恐縮ですが、その後婚約も解消して短い寿命を覚悟のうえで、どのように生きるかを考えたとき、「腎臓病や人工透析の知識普及に努め、これからの人に自分のような悔しい思いをしないですむようにしてもらいたい」という思いが強く湧きました。このような気持ちで東腎協の活動に飛び込んでいきました。

 昭和48年11月1日現在の東腎協会員数を見ますと734名となっており、その内の会費納入者は400名強でした。この内東京在住者は514名で70%、東京都以外は220名で30%という比率でした。また、昭和49年11月発行の東腎協初めての「会員実態調査報告書」を見ますと、当時の会員700名、回答者は393名で、透析者は276名70%で慢性患者は117名30%という比率でした。このように東腎協の初期においては、都外の方や透析以外の方を幅広く包み込み、なおかつ健常者の応援にも支えられておりました。これは全腎協でも同じことでした。全腎協との出合いは後ほど書きますが、昭和46年6月結成の全腎協も2代目上田昭(昭和62年没)会長夫人を中心とする団地のボランティア・グループが事務を支えておりました。

 そして東腎協寺田修治会長の職場の仲間が、都立大久保病院腎友会所属として、そう、吉田修吾さんが東腎協事務局次長として、石原重幸さんが全腎協の幹事や会計として活動に参加しておりました。もちろん慢性患者からも東腎協会報の今を築いた加藤茂さん、東大の学生で東腎協初めての「会員実態調査報告書」の、報告書作成を担当した事務局次長の山本豊さん、会報などの郵送準備を一緒にした幹事の伊籐喜良さん、後に東京都難病団体連絡協議会(以下「東難連」と称す)会長として活躍した平沢三吾さん(昭和63年没、元東腎協副会長、事務局長)などがおりました。加藤、伊籐、山本さんは今でもお元気にされており嬉しいかぎりです。

【全腎協との出合い】
 今は昔、そうこれも30年近く前になりますが、昭和48年4月15日に全腎協第3回総会が都立産業会館大手町館で開かれました。国立王子病院腎友会からは前述の牛岡さんの他に、佐藤文彦会計(故人)や原建治良事務局次長(故人)が役員として出ており、否応なしに受付事務を担当させられたのが初めての出合いとなりました。

 そして2回目の出合いは、そう確か同じ昭和48年ですが、東腎協と全腎協の役員会が水道橋の同じ旅館で開かれました。この会議の後、双方の役員が話し合ったことがありました。これが2回目の出合いでした。このときは全腎協の国会請願募金について、双方とも財政難のなかどうあるべきか激論を飛ばしました。私と同じ腎友会の原さんからは「全腎協の署名・募金だから全腎協が使うのは当たり前だ」と言われ、東腎協からは「署名・募金を集めるのは各県腎協で費用もかかる」などと反論し、全腎協や県腎協の役割などの議論を経て、現在の形が作り上げられる元を成した訳です。

 全腎協は昭和46年3月に日本大学板橋病院の患者らによる「ニーレ友の会」(全国組織の会 今の会は日大板橋病院にいた患者さんが多かったのでこの名前を継承している)の呼びかけにより、5つの会の代表13名が参加して準備会から始まりました。準備会は4回開かれ同年6月6日に歴史的な全腎協結成に至った訳です。初代会長には大西晴幸、事務局長には笠原英夫さんが就任しました。お2人とも「ニーレ友の会」会員で残念ながら昭和47年、49年に亡くなられました。笠原事務局長の言葉として伝え聞くなかで、大蔵省での陳情中に「あなた方はペンで数字を減らすだけかも知れないが、それにより多くの患者さんが死んで行くのですよ」と机を叩いたということが忘れられません。

【全国的・制度的問題と都区市問題・個別対応】
 今は昔、そう30年位前はまだ全都道府県に県単位の組織はありませんでした。東腎協も全腎協の方針にのっとり結成された訳です。従って全腎協は東腎協が出来るまでは東京都への要請・陳情も行ってきました。そのなかから全国に先駆けて、「マル都」と言われる「人工透析医療費実施要綱(当初は自己負担の半額助成)」が、昭和47年7月から適用され実施された訳です。

 なんと言っても全腎協の最大の成果は、「金の切れ目が命の切れ目」といわれた透析医療費の自己負担分について、昭和47年10月より透析者を「腎機能障害者」として、「身体障害者の更生医療」の適用により、実質的な公費医療助成制度を勝ち取ったことです。これを機に「公的病院への透析器の設置計画」や「民間での透析医療の開始」、また県市での「身障者医療費助成制度の創設」へと繋がって行きました。このように全腎協は全国的な問題、つまり法律の制定や改廃など制度的な問題についての運動を主に担当しておりました。

 これに対して東腎協は都区市への要請・陳情から個別の問題について活動をしてきました。そう確か昭和49年8月だったと思いますが、全腎協事務局次長の佐藤征二さん(故人)から、三軒茶屋病院の患者さんから「江戸川区で難病手当て月1万円」が決まったが、「透析患者は対象になっていない」と相談がありました。私は早速江戸川区役所の担当課長に電話をかけて、私たちはどういう団体で、どういうことについて、どのような陳情をしたいので会って頂きたいとアポイントをとり、佐藤次長と区役所を訪問し、厚生部長並びに福祉課長に陳情いたしました。

 この頃は江戸川区内に透析施設は1つも無く、江戸川区の患者さんが世田谷区まで透析に通っていること。透析がどのような医療でどんなに大変か、私たちの熱心な訴えに部長さんは、「分かりました、それでは区長が認める者という項目がありますので、これを適用しましょう」とその場で了解をいただきました。これには「全腎協の活動は法律の改廃や新しい制度の創設など何年もかかる。出来ている条例の適用とは言え、陳情したその場で成果が上がるなんて現場は違うなあ」と佐藤次長は大変に感激しておりました。

【東腎協初期の運動と悩み】
 今は昔、そう東腎協結成時の活動方針はおおよそ次のとおりでした。

1、腎疾患の早期発見・早期治療の確立 全都民の公費による検尿制度の確立
2、腎炎、ネフローゼ等の長期療養者の医療費公費負担と生活保護
3、総合腎センターの設置
4、専門医療関係者の充実
5、社会復帰対策の促進

 私たち役員はこの目標に向かって活動を始めました。しかし、悲しいかな私たちのいく手には多くの難問が待ち構えておりました。

 今は昔、そうこの頃の透析者は体力が充分ではなく、役員会に出て来られる人も多くはなく、出て来られた役員さん、そう例えば中川紀久雄事務局長(平成11年没、旧姓堀江 以降「堀江」と記す)なども「鼻血」を出していて、寝転びながらの会議ということも何度かありました。しかも役員会等を開く会場も定まらない状態でした。そして寺田会長も体調が勝れず役員会を欠席しがちでした。
 その結果、役員会等の会場は旅館で開いたこともあり、新宿区の某幹部である透析者のお世話になり、某支所の会議室をお借りしたこともあり、私の住所と勤務先が渋谷であり、加藤さんの勤務先は千駄ケ谷ということで、渋谷区の千駄ケ谷、本町、大向区民会館など渋谷区の施設の使用が多くなり、使用料免除団体の許可までをも貰いました。この会場申し込みは、希望者が多い時は抽選となり、大変な努力を必要としました。

 さて、会議となりますと寺田会長欠席のためになかなか話しがまとまりません。初年度の活動で主なものは、東腎協初めての「都議会請願」を行い、その一部が採択され「3歳児検尿の義務化」などが実現に向け動き出したことでした。また、身障者福祉手当等について都内全区市町村へ照会調査をおこない、調査資料集を作成して東京都福祉局にも提出し、東京都としての手当ての実現に一定の役割を果たせたことです。この照会文書が東腎協初めての外部宛文書となりました。東腎協と言っても区市町村の担当者は知らない訳ですから、役所の照会文書の形式をとり番号は1号ではカッコ悪いので、1001号として返信用封筒(勿論切手を貼り)も同封しました。その結果、19区26市町村から回答を頂くことができてほっといたしました。

 そして昭和48年末の役員会で第2回総会の準備が始まりました。久しぶりで寺田会長も出席され、活動報告等の分担に入りましたが誰も引き受けてはなく、予め私が作っておいた青焼き(この頃は乾式コピーがあまり無かった)の案を提出し討議をしてもらいました。私も組織活動の経験はありませんでしたので、組合の資料を参考にして活動報告は作成し、活動方針は東腎協としての基本的な態度を、多岐にわたって明らかにするようにしました。「重点的な項目を挙げて活動せよ」という意見もありますが、東腎協としてあらかじめ方針を決めておきませんと、想定される問題にも対処できないことと、運動は1年2年では実現せずに時間がかかるため、同じ項目が数年にわたるのも止むを得ないと思ったからです。
 このような状況のなかで昭和49年、第2回総会を前にして寺田会長は死去されました。そうです。今は昔となりましたが、当時は今でいう「B型肝炎」が猛威を奮い、寺田さんが会長をしていた「都立大久保病院」では、組合により透析患者の入院拒否が行われておりました。寺田さんは透析後に看護婦さんと話し合いをしておりましたが、その話し合いをしていた喫茶店で倒れ、入院拒否が行われているため病室には入れずに、透析室に入院したと聞いております。何か壮絶な死のように思われました。

【東腎協初期の運動その2】
 今は昔、多くの腎臓病患者の期待を担って船出した東腎協は、昭和49年3月31日に渋谷区千駄ケ谷区民会館において第2回の総会を開きました。直前に寺田会長が死去されましたが、すでに遺稿となる挨拶文が作成されておりましたので、初代副会長の小林孟史さん(全腎協常務理事)が代読して涙をさそいました。私が寺田さんの言葉の中で強く記憶に残っているものは、結成総会の会長挨拶にありました「社会福祉はその福祉を受けたいと願う者が希望するようなものでなければならない、その為に運動は自分自身でしなければならない、貴方任せであってはならない」という言葉です。私たちは自分自身で運動を続けなければいけないと思いました。そして2代目会長として会計監査をしていた石坂一男さん(昭和55年没)が就任されました。優秀なビジネスマンという感じで人工腎臓虎の門会所属でした。そして私も副会長として一緒に活動を始めました。このころは私も出すぎたことが多く、石坂さんには申し訳なかったと後悔しております。石坂さんの広い心が私を好きなように活動させてくれたのだと思います。

 昭和50年前後の運動についてですが、相変わらず困難が伴いました。都議会請願は昭和49年度も行いましたが、昭和48年度の請願のとき「1年以上わずらって入院、自宅療養を続けている腎疾患患者の治療を公費で負担してください」という項目がありました。この請願について東京都衛生局(以下「東京都」は略す)の特殊疾病対策課長に要請をした際、「1年以上わずらっている疾病は沢山ありますよ」といわれてしまいました。非透析の患者さんに公費負担の実現を願って入れた項目ですが、いわれてしまえばそのとおりであり、単純な希望・要請項目ではなく、しっかりと理論武装して納得してもらえる項目を作らなければならないと肝に銘じました。昭和49年度のこの項目は「腎炎、ネフローゼ等の長期療養者の医療費を公費負担としてください」と変更されました。

 この頃は私も運動に夢中になっており、衛生局への陳情も医師である特殊疾病対策課長よりも、良く話しを聞いてくれる里山浩美業務課長(後の医療福祉課、医療福祉部の庶務担当課長、事務)、を訪ね、人工透析がどういうものであるかダイアライザーや穿刺針の実物等を持ち込んで、透析の大変さや問題点を訴えておりました。今考えてみますと、お忙しいなかご迷惑だったと思いますが、良く私の話しを聞いてくださいました。このような陳情のなかから昭和49年6月に衛生局会議室において、「東京都衛生局事業説明会」を開催していただくことができました。各担当課を廻る陳情では労力も大変であり里山課長のご協力により実現したものです。この頃は東難連はありましたが単独疾病団体で活動している団体はあまり無く、他団体を気にすることも少ないため実現したのではないかと思います。そしてこの会への東腎協側出席者は、私の他は糸賀久夫幹事(相談役、前東腎協会長)、吉田修吾事務局次長、平沢三吾幹事の4人で、平沢さん以外は全員公務員でした。このように平日の活動には難しいところがあり、私も有給休暇の殆どを東腎協・全腎協の活動で使っておりました。

 その後、この説明会(陳情も行う)に福祉局(マル障等障害者福祉)、総務局(災害対策や障害者採用等)、教育庁(学校検尿)、労働局(障害者雇用等)等と対象が広がり、現在の東京都への予算要請会(衛生局で都の会議室を1日確保してもらい、時間を区切って各局への陳情を行う会)へと繋がってきたものです。そうそうこんなこともありました。「養育院の老人医療センターで、透析の必要な患者さんがおり、近くの透析施設に協力を求めている」と柳光夫幹事(常任幹事、元副会長、元全腎協理事)より問題提起があり、新たに養育院への陳情を行うことになり、私が1人で養育院を訪ねました。担当は医療センターの医事課か養育院本庁の管理部か、迷った挙句に管理部を訪ねました。この時は養育院からは管理部の課長と医療センターの医事課長のお2人が出席してくださり、「そういう問題があるのを知らなかった、透析は必要だとは思うが、今は夜間の二八勤務(注:参照)を重点に予算要求しているので、直ぐには要望に答えられない」との回答でした。しかし、現在は老人医療センター、多摩老人医療センターともに透析をしております。

 注: 「二八勤務」→「ニッパチキンム」と読みます。
 意味は「看護婦さんの夜間勤務体制」を表す言葉で、「二人で月に8日の夜間勤務体制」を表わします。当時は「一人勤務や多すぎる夜間勤務が問題になっておりました。

 前述の里山課長とは数年後になりますが、森義昭事務局長(現)と一緒に衛生局病院管理部企画室へ陳情に行った時ですが、訪ねた担当者が来客中なので廊下で待っていたところ、里山さんが通りかかり「今日はなに」と尋ねられたので、「来客中なので待っています」と答えたところ、その担当者の所へ行き何かいうと、来客はすぐに帰り担当者から手招きをされました。そこで聞いたところ里山さんは病院管理部長とのことでした。
 担当者の異動については気を付けてチェックしておりましたが、何年もしますと分からなくなり思わぬところで再会するものです。私としては懐かしかった里山さんも現職で癌を患って亡くなられ、「医療行政を担っておりながら自分自身を管理できずに残念」といわれたとのことでした。

 このように都庁要請には営業マンのような努力も必要とします。何度も足を運び顔見知りとなり要請事項がモットモだと理解してもらう必要があります。「腎臓移植の検査費用の助成」については、愛知県で助成が始まった、岐阜県でも助成が始まったという情報が入る度に、各県より資料を取り寄せ特殊疾病対策課に持ち込み説明を行いました。それでも実現までには数年を要しました。

【東腎協初期の運動その3】
 そうです、今は昔となりましたが、東腎協としての初めての実態調査も行いました。まず自分達の状況や要求をまとめるためにも必要だと考えたからです。昭和49年度の活動計画にもとづき6月に実施をしました。実態調査の集計までを私を含む7名が担当し、分析と報告書作成までを山本事務局次長が担当しました。会員数は前述のように約700名でしたが、短時間で実施したため回収数は393名という結果でした。できれば1日で集計したいと思い、渋谷区本町区民会館の畳の大部屋を確保して始めました。堀江事務局長や一ノ清幹事を始め、透析を終わった方も飛んで来ましたが7月末の猛暑のなか、なかなか効率は上がりませんでした。

 私は役員だけでは無理だと思っておりましたので、私の職場のスキーやテニスの仲間に応援を頼んでおいたところ、男性は無理でしたが女性陣が午後から半日の休暇を取り、6名も来てくれて夜にはあと少しという所まできました。残りは図々しくも宿題にしてもらい、後日受け取りましてどうにか1日で集計を終了することができました。友達とは有り難いものです。後日、彼女たちをビヤホールに招待し大変に盛り上がりました。
 この集計結果を山本事務局次長に引継ぎ、分析とグラフ化した原稿を作成してもらい11月に発行に至った訳です。

 この間東腎協の事務局は、堀江事務局長のお宅から一ノ清常幹宅に変更され、昭和49年11月に小林全腎協事務局長(元東腎協副会長)の専従化、全腎協事務所の開設に伴なう共同使用により、落ち着きをみることができました。しかし専従職員の確保が次の大きな課題となってきました。しかし財政的には相変わらずピンチが続いておりました。東腎協の決算規模は、全腎協会費を除き初年度は約38万円、2年度で約128万円という状況で、もちろん日当などはありません。

 そこで透析関連の企業を廻り寄付をお願いすることになりました。これは確か小川忠光顧問(故人)の発案だったように思います。小川顧問は人工腎臓虎の門会会員で、全腎協上田会長とも親しく、一緒に運動に参加して来ました。そして東証一部上場会社の重役をしており、経済人として透析関連企業の役員とも面識がありました。この会社廻りはほとんど小川顧問が手はずを整えてくれ、時には小川顧問は会社までは一緒に行きますが、「私はいない方がよいだろう」と寄付要請の場には出席されないこともありました。今考えますと「総務課」廻りだったかもしれません。

 社会経験の豊富な石坂会長と小川顧問で相談され、私たちはついて行って「寄付要請」を熱心に行いました。寄付しますと言っていても実現しなかった会社もありましたが、お陰様で日機装株式会社本社へ要請の結果、役員会の決議を経て多額の寄付をいただくことができました。また、扶桑薬品工業株式会社の東京支店へ要請したところ、当時の村上支店長さんは「1度に多額の寄付は難しいので毎月1万円を寄付しましょう」とお答えいただき、今日まで30年近く継続していただいております。また、私の勤務先で組合役員の方が、私が支部大会の際に「職員皆検尿実施を」との修正案を提出し可決されたのを期に、本部大会の際に「支部の組合員で東腎協の活動をしている者がいるので援助を」と発言し、本部からカンパニアとして援助するとの回答を引き出してくれました。これ以降長期にわたり毎年多額のカンパをいただきました。扶桑薬品工業株式会社と東京都職員労働組合(現東京都区職員労働組合)には、東腎協結成20周年総会の際に、気持ちだけではありますが感謝状を贈呈いたしました。

【全腎協初期の運動】
 今は昔となりましたが全腎協は、東腎協結成前は都庁に対しても、陳情活動等をしておりました。では全腎協の厚生省(現厚生労働省)など国への陳情についてはどうでしょうか。全腎協は全国組織のために、地方出身の役員の方はそうそう参加はできません。

 例えば昭和49年4月5日に「障害年金の裁定と運用の改善についての要望」を、厚生省出原孝夫年金保険部長に面会し、社会保険庁長官宛の要請書を渡したことがあります。この時は全腎協からは上田会長(故人、埼玉)、勝山英輔副会長(故人、京都)、白鳥裕通幹事(移植、神奈川)が出席し、そして東腎協からは泉山、平沢、小川の3役員が出席して大きな力となっておりました。この頃の廃疾認定日(現障害認定日)は「初診日から3年を経過した日」となつており、この要望書でも透析研究会発表の3年生存率は13・6%にすぎないとしておりました。私は堀江事務局長から聞いて取り寄せた資料をもとに、「透析研究会の小高通夫先生の資料によれば、昭和47年12月末の3年生存率は21・2%であり、多くの人が年金を貰えずに亡くなっていく」と透析者を代表して訴えました。そうです、私自身は共済組合員なので退職しないと貰えないのですが。この具体的な訴えが効いたのか「その資料を見せてください」といわれ、上田会長からは「泉山さんその資料を差し上げてください」といわれました。このように全腎協の活動には殆ど東腎協の役員が参加し、一体となって活動しておりました。全腎協を支えるのは首都東京の会の宿命だと思っておりました。

 全腎協は障害年金に関する問題について、国会議員にも訴え続けてきましたが、4月には衆議院では田中美智子議員(革新共同)が、参議院では小平芳平議員(公明党)がそれぞれの社会労働委員会で取り上げ、厚生省から積極的な回答を引き出してくれました。このような経過もあり6月28日の厚生省交渉では、「前向きの結論を出すとの基本方針は変わらないのでもう少し時間を貸してほしい」との回答でした。この時の出席者も全腎協は上田、牛岡、小林、石原さんの4名で、東腎協からは私と加藤事務局次長が参加しました。そして国会では某議員さんが全腎協が提起する問題を取り上げ、厚生省から積極的な回答を引き出してくれました。このような経過を経て、大きな成果を上げることになった社会保険庁交渉が11月12日に行われました。この時も東腎協からは私と加藤さんが出席しました。この席では大きな成果である「〜年金における慢性じん不全にかかる廃疾認定の取り扱いについて」(昭和49年9月14日、庁保発第24号第25号通達)についての疑問点について明らかにされました。この大きな成果の1つは「〜人工透析療法を受けている者については、はじめて当該療法を受けた日から起算して3か月を経過した日(初診日から起算して3年以内の日に限る)とする」として、透析者の廃疾認定日を画期的に短縮したことです。「障害認定日が1年6か月を経過した日」と改正された現在でもこの通達は効力を有し、透析者の福祉向上に役立っております。もう1つは「廃疾の程度の認定」の明確化です。私としましても透析者にとっての画期的な成果に、少しでも貢献できたことについて大きな満足感を得ることができました。

 そしてこの時のことでもう1つ報告したいことがあります。社会保険庁業務課の某課長補佐から「前に出席していた京都から来ていた副会長さんは」との質問が出ました。全腎協からは「残念ながら亡くなりました」と答えますと、本当にビックリされて「エッ…」と絶句してしまいました。何かこの要望を地でいっているようでした。勝山さんは医師より「もう透析に入りなさい」といわれているなかで、九州の腎友会までオルグに行ったり、休まずに活動を続けており帰らぬ人となってしまいました。「先人が命をかけて」と言いますと、オーバーなと思われるかもしれませんが、寺田、大西、笠原、勝山さんなど初期のリーダーや、石坂、宝生和男(東腎協第3代会長)、石川勇吉(東腎協第4代会長)、前田こう一(全腎協第3代会長、元京都府会長)、浦川光永(元全腎協副会長、元福岡県会長)さんなど、多くの人が東腎協・全腎協活動に情熱を注ぎ、大きな成果を獲得して旅立たれていきました。会長経験者で頑張っておりますのは、全腎協では私だけですし、東腎協では私と糸賀さんだけとなりました。私は10月で、糸賀さんは12月で透析満30年となります。東腎協では一ノ清さんが32年、高橋勇二郎さん、木村妙子事務局次長が8月で満30年となり現在でも頑張っております。

【最後に】
 今は昔となりましたが、東腎協・全腎協のあれこれを書き連ねてきましたが、残りの頁も少なくなりました。書き連ねた内容もほとんど初期の頃の話しで終わってしまいました。今では東腎協は大きな事務所に、大勢の役員さんが活動しておりますが、昔から今のような組織があった訳ではありません。その時代その時代の役員さんたちが、もがき苦しみながら創り上げてきたものです。

 目に見えるものだけではありません。腎臓病、人工透析、医療制度、福祉制度などの学習と腎臓病患者のための要求の作成。そう、老人医療に件数払いが適用になる頃、「アメリカの病院革命」の本を読み「アメリカの診断群別定額支払い制度(PPS/DRG)」の理解を深め、小林さん(現全腎協常務理事)をリーダーに「医療経済学(臨床医の視角から)」という本をテキストに、東腎協有志により1年をかけての勉強会も行いました。外部では厚生省某氏による勉強会や、全患連(発展的に解消し現在は日本患者・家族団体協議会)の多摩全生園での泊まり込み勉強会などを思い出します。大変ではありましたがやり甲斐は大いにありました。時代が良かったのかもしれません。

 今は昔となりましたが、東腎協では「特定・特殊疾病医療費の助成制度(いわゆるマル都)、透析以外でも悪性腎硬化症、「ネフローゼ症候群、多発性のう胞腎」、「障害者医療費助成制度(いわゆるマル障)」、「障害者福祉手当」、「腎移植検査費用の助成」「職業安定所に障害者窓口の設置」「東京都及び特別区職員採用試験に障害者の別枠採用の実施」等数々の成果が上がりました。全腎協では「身体障害者福祉法の適用(身障手帳の交付)」「身障者の更生医療の適用(実質的な公費補助)」、「身障者雇用促進法の適用」、「年金制度の改正」、「腎移植手術に健康保険適用と腎バンクの設置」等数えきれないくらいにあります。まだ書きたい項目は沢山ありますが、それは次の機会へ残して終わりにしたいと思います。

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 東腎協30周年 あゆみ P37-46


最終更新日:2003年2月11日