T.東腎協運動を明日に託して
東腎協をリードした会長物語
加藤  茂 (『東腎協』編集委員)
 東腎協20年誌『あゆみ』では、初代会長の寺田修治から5代会長の泉山知威を取り上げました。ここでは、その後の10年間を会長の歩みを通して東腎協の運動を振り返ってみました。
初代会長 寺田 修治
 1938(昭和13)年1月21日生まれ。1972(昭和47)年11月の結成総会で会長に選出。都税事務所に勤務、大久保病院腎友会会長。東京都関係の広報資料の提供など全腎協の運動にも力を発揮しました。第2回総会の直前に大久保病院の近くの喫茶店で患者会の打ち合わせ中に突然倒れ急逝。
2代会長 石坂 一男
 1932(昭和7)年10月生まれ。1974(昭和49)年〜76(昭和51)年まで会長を努めました。人工腎臓虎の門会会員。財政難の東腎協を支えるために奮闘、会員拡大にも尽力、初期の運動の基礎を築き上げました。第4回総会で会長を退き、1980(昭和55)年亡くなるまでビジネスマンとして活躍しました。
3代会長  宝生 和男
 1926(大正15)年8月25日生まれ。1976(昭和51)年〜1985(昭和60)年まで会長を努めました。全腎協の結成でニーレ友の会の果たした役割は大きかったが、宝生もニーレ友の会の会員でした。東腎協の飛躍的発展をめざして会員拡大、事務所を独立させ事務局体制を強化、会費を値上げし財政基盤を安定させた功労者。85年5月22日急逝。
4代会長  石川 勇吉
 1919(大正8)年3月6日生まれ。1986(昭和61)年〜89(平成元)年まで会長を努めました。宝生と同じニーレ友の会会員。宝生が急逝した後、泉山知威が会長代行を86(昭和61)年まで努めたが、泉山が全腎協会長に就任したため会長に。主治医から再三にわたってドクターストップがかかっても衰えることなく運動に情熱を注ぎました。会長を辞めた後、相談役として頑張っていましたが、89年7月9日急逝。
東腎協20年の運動支え
5代会長 泉山 知威
 1942(昭和17)年1月2日生まれ。72(昭和47)年10月透析導入。東腎協結成直後から役員に。89(平成元)年から94(平成4)年まで会長を務める。全腎協会長を86(昭和61)年から87(昭和62)年まで努める。
 
 泉山知威は、1989年(平成元)年から94年(平成6)年まで会長の任を努めました。泉山は、透析に入ってすぐ1972(昭和47)年の結成大会に参加し、幹事に選ばれた後、事務局長、副会長を担当してきました。全腎協でも幹事、運営委員と活躍し、1986(昭和61)年には会長に就任、翌年度まで努めました。1992(平成4)年には、東腎協結成20周年に当たり、自らシンポジウムの司会を担当したりして多大な貢献をしました。

 1992(平成4)年、東腎協20周年ということで意欲的に数々の行事を行いました。6月28日には、第6回目の「腎臓病を考える都民の集い」を新宿・住友ホールで278人が参加して開催。9月27日、新宿・戸山サンライズで会員交流会は、大ゲーム大会として開催。ブロック対抗と個人戦、9種目で行われ、みな透析患者とは思われないほどの動きぶりでした。個人戦の入賞者一人ひとりに会長の泉山から記念品が贈られ、表彰されました。11月29日、結成20周年パーティをアルカディア市ヶ谷で123人が参加して開催。パーティは内部的な催しとして行われ、東腎協の初期の活動を支えた役員、事務局員、歴代会長夫人、関東ブロック、全腎協の方々を招待し、結成の頃の思い出等が語られました。富くじの抽選も行われ、華やいだ楽しい催しと大変好評を博しました。

 1993(平成5)年4月4日、東腎協第21回総会が新宿区戸山サンライズで行われ、会員・家族など221人が参加しました。
泉山はあいさつでこう述べています。
 〈20年前は病院に透析の機械を寄付して透析をすることもあり、それでも透析に月30万円かかり本当に透析は大変でした。今は安心して透析ができるようになりましたが、これからはどうかというとそうではありません。社会保障制度審議会の第一次報告で、財政的には国民の応分の負担などと書かれています。私たちが実現してきた制度がこのままいくとはいえません。そのためには強固な運動を続けなければなりません。そのもとになる各病院腎友会、今、休会している腎友会もありますが、足元からの運動を強めなければなりません〉
と活動の原点として組織の強化を訴えました。

 総会直前の3月4日、事務局次長として活動をしてきた石川みさがくも膜下出血で急逝しました。石川は、1981年から東腎協常任幹事を努め、88年10月からは事務局に週2〜3回アルバイトとして勤務、90年からは事務局次長として活躍してきました。

 結成総会から21年間にわたって、東腎協、全腎協の活動を続けてきた泉山知威は94(平成6)年の総会で東腎協の会長の座を竹田文夫に渡しました。退任にあたって次のように述べています。
〈昭和61・62(1986、87)年度の全腎協会長から、平成元(1989)年から5年(1993)年度までの東腎協会長へとリーダーシップを必要とするときにあって、私は「いのちとくらしを守るためにはどうしたら良いか」を念頭に行動してきたつもりです〉とさわやかにあいさつをし、東腎協相談役に就任しました。

 その後、1995(平成7)年には、長年の尽力に対して東京都衛生局長から感謝状が贈呈されました。
 感謝状の文面には「あなたは東京都腎臓病患者連絡協議会会長として永年にわたり特殊疾病対策の推進及び向上に貢献されました。ここに深く感謝の意を表します」と記されていました。
 東腎協相談役も体調のために平成13(2001)年度29回総会において退任しました。東腎協より長年の貢献に対し感謝状を送りました。

東腎協の拡大めざして
6代会長 竹田 文夫
 1932(昭和7)年生まれ。81(昭和56)年透析導入。85(昭和60)年から東腎協の役員に。会計、事務局次長、副会長を歴任後、94(平成6)年から96(平成8)年まで会長を務める。
 
 94(平成6)年4月3日、東腎協第22回総会で会長に竹田文夫が選出されました。この時の竹田は62歳、透析歴12年、国分寺南口クリニックに通院していました。これまで東腎協の役員として常任幹事、会計、事務局次長、副会長など11年間、活動をしてきました。

 商社の営業マンとして説得力はバツグン。手品はプロ級でいつもバスの中やホテルで存分に人を楽しませ、自身は透析になっても雲取山に登ったりして山登りに挑戦、酒もいける方で会議の帰り道に駅のホームで缶ビールを買って飲むほどでした。

 竹田は、岩手県渋民村の出身です。歌人の石川啄木が有名ですが、竹田の父親と啄木は小学校の時の同級生で、故郷の渋民村はいつまでも心の中に思い出として残っていました。
 40歳代のときに疲れ、会社の健康診断で“あなたは蛋白が大分出ています。血圧も高いから一度病院、専門医に行かれたらどうですか”と言われましたが、そのまま普段と変わらない生活をしていました。10年目に足の関節が痛風になって整形外科に通院したら、内臓からきているのでと内科に廻されました。即入院しなさい、と言われるほど腎臓は悪化していたのでした。

 会長に就任するにあたってこんなことを述べています。
 〈もっと若くて元気な方にお願いをしたくて4、5人の方と交渉、依頼しましたが、若い方々は会社勤めで一家の生計を成していて、東腎協の仕事で会社を休むわけにはいかないので無理と言われました。皆さんいろいろ事情があって難しく、私など比較的時間の余裕があり、年金生活者ですから他人に甘えては申し訳なく思い、微力ながら会長を引き受けることにしました。
 会長といっても私が会をどうするわけでもなく皆さんの代表者でありますので、会員の皆さんと共に活動していきたいと思っています。これからは医療から福祉まで大きな課題が山積しています。一つひとつ時間をかけて取り組んでいかねばなりません。
 私は親しまれる東腎協、対話の東腎協をモットーにしたいと思います。東腎協は皆さんの会費で運営している訳ですから一部の人にまかせずに会員の皆さんがいろいろな行事に参加していただきたいと思います。もし東腎協、全腎協というこの会がなかったら、今の私たちはどうなっていたかを考えていただきたいと思います。今日、このように安心して透析が受けられるのも患者会があったからのお陰なのです。
 お互い透析患者です。体調の悪い日もありますが、出来るだけ行事には参加していただきたいと思います。それが会の発展にもなり、また会員の皆さん自分個人のためでもあります。
 私に用事がある方はいつでも声をかけて下さい。時間が許す限り出来るだけお伺いし、お話もしたいと思います。〉

 竹田が就任したその年の夏、草間和男事務局次長、中田青功副会長、本間正良常任幹事が相次いで他界してしまいました。

 草間は、1980(昭和55)年度から常任幹事になり、1986(昭和61)年から専従役員として森義昭事務局長と二人で東腎協事務局を運営してきました。機関誌『東腎協』や『腎臓病を考える都民の集い』の発行、財政運営、東難連(副会長)など範囲の広い仕事量をこなしていました。8月の暑い日、あまりにも突然の死で役員に衝撃を与えました。当面、一番問題になったのは機関誌『東腎協』で、編集委員が一丸となって定期発行を守りました。中田は、目立った存在ではありませんでしたが、「たとえ東腎協の役員が自分一人になっても活動は死ぬまで辞めません」と言うほど几帳面で誠実な性格で東腎協を陰から支える人でした。

 竹田が会長になって1年の間に、あいつぐ役員の死によって大変痛手を受けましたが、医療をめぐる状況も厳しく診療報酬の包括化、入院給食費が有料化になりました。全腎協を先頭に粘り強く運動を続けてきた有料道路の割引は実現しました。

 1995(平成7)年1月17日(火)朝、阪神・淡路大震災が起きて大きな被害が出ました。24人の仲間(透析患者)が家屋の倒壊で亡くなり、800人余の人が分散して透析を受けました。他の施設で透析を受ける時には自分のダイアライザー、針等のデータを知っておくことがいかに大切であるかを証明することにもなりました。東腎協では、全腎協の呼びかけに応えて、すぐ大震災の義援金募金を会員に訴えたところ550万円余を集めることができました。
 また阪神・淡路大震災の教訓に学び、災害対策の取り組みを重視しました。幾つかの患者会でおこなわれた避難訓練、災害対策アンケート調査(11月から96年1月15日実施)をして、いざという時に備えられる患者会をめざしました。

 1996(平成8)年4月から透析医療費が切り下げられ透析患者に影響が出るのでは、と心配されましたが、全腎協が要求していた5時間以上の透析が認められ、長時間透析は長生きできるというので期待が高まりました。

 5月19日、全腎協は結成25周年を迎え、記念の第26回総会を東京・三田の笹川記念会館ホールで開催、会員など694人が参加しました。「…多くの人々の努力、善意と貴重な資源によって支えられている生命を私たち自身も大切にしながら、人々の幸福のために献身したいと思います」という総会宣言を満場一致で採択しました。

 会長としての竹田の活躍が期待されるようになった同年秋、心臓手術をして順調に回復していきましたが、再び倒れ11月23日、多くの役員、会員に惜しまれながら帰らぬ人になってしまいました。その後、会長代行になった糸賀久夫は、竹田をこう評しています。
 〈竹田会長は、いつもニコニコ微笑んで、心暖かな人物の方でした。
 東腎協の活動に参加された頃は、宴会の席やバス旅行のときに奇術サークルで覚えてきたのでしょうか、楽しい手品を披露してくれました。本当に人を楽しませることの上手な方でした。その手品も会長になってからは、忙しくなってしまったため、見られなくなり残念でした。その反面、会議などには、少しお洒落に蝶ネクタイを締めて、バチッリきめて出席するジェントルマンでした。
 東腎協の中では、患者会のない病院に患者さんを訪問してまわり、透析患者が手をつなぐことの大切さを訴え、患者会を作ってほしいと熱心に活動されました。中でも、多摩ブロックを重点的に訪問されました。会員さんの中には、竹田会長にお目にかかったのがきっかけで、会の活動をはじめられた方も数多くいると思います。
 この1〜2年は、体調が悪いのにもかかわらず、東腎協の活動に熱心に参加され、特に組織拡大をはじめ、常任幹事の育成などに尽力されました。
 私も竹田会長の遺志を引継ぎ、東腎協の発展のため微力ながら頑張りたいと思います。〉

 また同じ国分寺南口クリニックで一緒に透析していた中村軒三(立川北口駅前腎友会、東腎協幹事=当時)は、
 〈竹田会長との出会いは、透析に入った昭和56年からのお付合いで、年齢も同じなら、町会自治会も同じで、透析日には車で国分寺南口クリニックに一緒に通ったものです。彼は少年時代に父親に死に別れ、牛乳配達をして学資を稼ぎ高校を卒業し、苦労されたそうです。スポーツはマラソン選手で、岩手県代表で出場したこともあったそうです。
 東腎協入会は、ある時何処かで聞いたか「腎臓病の会が目白にあるそうだから行ってみよう」と2人で目白の旧事務所を訪ねて、いろいろお話を伺い、先輩のご苦労が判りました。その後、病院の患者会を作ろうと2人で結成しました。
 初めは12人で国分寺南口クリニック親光会と名付け活動したものです。今では70人位になっています。竹田さんは東腎協の常任幹事に出て会計、事務局次長、副会長に、そして会長になり「若い人にやってもらおうと思ったが、やり手がないので会長を引き受けた。体の続く限り頑張りたい」と言っていたのが印象に残っています。
 彼は手品の会に入り、プロの手品師も顔負けするほど上達し、新光会の新年会や東腎協の旅行会などで、皆を喜ばしてくれました。また、山登りが好きで暇があれば山に行っていました。山への思いを書いた「ひとり旅」という本を作り、私にくれたこともありました。〉
と竹田の人柄を評しています。

透析医療を守るために
7代会長 糸賀 久夫
 1949(昭和24)年1月6日生まれ。72(昭和47)年12月透析導入。74(昭和49)年から東腎協の役員。副会長など歴任、97(平成9)年から2002(平成14)年まで会長を務める。文字通り東腎協の運動を30年間支えた功労者。
  
 1997(平成9)年4月6日、東腎協第25回総会が戸山サンライズで190人の参加で開催されました。竹田が急逝した後、会活動の先頭に立って重責を担ってきた糸賀久夫が満場一致で会長に就任しました。総会のあいさつでは「医療保険の改正など厳しい情勢の中、東腎協結成25周年の今年は、会員拡大を最重点に取組むと同時に、他の難病患者と共に、透析が生命を維持させる医療行為であることを国民に理解させる行動を行いたい。皆さんの協力をぜひお願いします」と述べました。

会長就任にあたっては次のように応えています。
 〈東腎協の常任幹事会で話し合った結果、私が会長代行をすることになりました。もっと人生経験の豊富な方がたくさんいる中で不安でしたが、何とか皆さんのご協力で今回の第25回記念総会を迎えることができました。
 個人的なことになりますが、私も今年で透析25年目になります。今日まで東腎協は数多くの人たちによって支えられてきました。不幸にして故人となられた方もたくさんおります。25年を迎えた今日、原点に帰るのも大切なことだと思います。先人の思いをしっかり受けとめて活動していきたいと思います。
 今国会での医療保険制度の改正にみられるように、たとえ改正しても「一時しのぎ」でしかなく新聞では、国立病院などで、「入院医療費定額払い」が試行されるとのことです。高齢者の医療制度独立案では負担がさらに重くなるといわれています。透析医療費が1兆円近くなるといわれるとき、自己負担分がいつまで公費で助成されていくのか不安になります。大切なことは医療保険の水準をこれ以上、下げさせないことです。
 私たちの医療は命を守る生命維持の大切な医療であることをはっきりと市民の皆さんに知ってもらうことが大切です。難病の仲間とも手を取り合い、会員の皆さんとも一緒に体をいたわりながらも、よろしくお願いします〉と就任にあたって述べました。

 6月15日、東腎協結成25周年記念講演会を開催、会員、家族など174人が参加しました。「災害時における透析医療の確保について」(東京都衛生局医療福祉部特殊疾病対策課長・東海林文夫)、「東腎協の災害対策と今後の課題」(東腎協災害対策委員長・原三代吉)の2つの講演を行いました。

 また6月22日には、アルカディア市ヶ谷で108人が参加して会員交流パーティーを行いました。この席で糸賀は、記念すべき25周年でひとえに会員皆さんの協力に感謝しつつ、透析患者にとって厳しい時代が始まりつつあることを訴え、患者の声を行政に反映させるために会員拡大を最重点に取組む決意を述べました。
 会場に並べられた飲み物、和・洋・中のごちそうがみるみるうちになくなるほど、大いに飲み、食べ、未来の発展を誓い合いました。透析20年以上の会員の表彰が行われ25人の該当者には災害時に役立つアイデア商品が記念品として贈られました。参加者は、透析技術が発達していなかった苦難の時代を生き抜いている人を見て、敬意を表すると共に大いに勇気づけられました。マジック&歌謡ショー、東腎協恒例の夢競馬、カラオケ大会で盛り上がった会は、最後に「透析の歌」(「浪花節だよ人生は」の替え歌)を全員で合唱し、閉会しました。

 10月12日、岩手県盛岡市岩手教育会館で開催された「腎移植推進国民大会式典」において、厚生大臣小泉純一郎名による感謝状を糸賀、北爪勇副会長が出席し受賞されました。受賞理由は「多年にわたり腎移植等の普及、啓発のために努力し、腎不全対策の推進についての功績顕著である」という内容でした。

 11月7日、糸賀他役員5人で「心身障害者(児)医療費助成ならびに障害者関係施策の継続・発展を求める」署名6万258人分を持って東京都議会に提出しました。紹介議員も5会派12議員からいただくことができました。東腎協単独の署名運動としては3回目でした。このほか要請ハガキをはじめ広範な都民の反対、世論の盛り上がりによって東京都は、心身障害者医療費助成に対する一部負担導入を断念せざるを得ませんでした。

 1998(平成10)年7月9日、東腎協事務所が豊島区目白から同じ区内の南大塚に移転しました。大塚駅南口から徒歩5分で8階建てビルの6階、エレベーター、洗面所(男女別トイレ)、給湯室、空調完備で面積はそれまでの約3倍、家賃、共益費、光熱費などを合わせた支出増は約260万で、1999年度から年額1200円の会費値上げがされました。
 移転前の事務所は、個人会員500人余を含む患者会への多岐にわたる業務を効率的にこなすため、導入したOA機器類、印刷機等が事務所スペースの相当部分を占め、機関誌納入時などは身動きできない状態になっていました。事務局の人たちは、狭い部屋の中で機関誌の発送(部屋に入りきらず階段の踊り場まではみ出している)をしたり、各種案内状や会議資料などの作成、電話相談などに奮闘、来訪者も座る所がない状態でした。また事務局の人たちは、手当もなしの残業はあたりまえ、土・日も出勤したり、各種会議への参加と多忙を極めていました。安定した体制を作りあげるためには事務局員の増員、アルバイトの多用などの必要があり、それには人件費がかかることが予想され、月額100円、年額1200円の値上げが、前年98年度総会で提起、承認されたのでした。

 透析患者は高齢化が進み、導入患者の平均年齢62・22歳(1997年12月調査)、糖尿病性腎症からの導入も多くなって東腎協としての課題も多岐にわたっていきますが、肝腎の患者会の役員をする人が少ないことを糸賀は心配するのでした。患者会活動には意義があると1999(平成11)年の年頭あいさつでこう述べています。
 〈会員が、それぞれの立場でできることを具体的に行動に移すことが大切だと思います。役員を引き受けて活動することは、負担に感じることもあると思います。しかし、それ以上に多くの貴重な体験が得られると思います。みんなのための活動が、実は自分の自己実現の道であり、そこに透析ライフの向上があるのではないでしょうか。その意味でも患者会活動は、十分な意義があります。
 患者会活動を労働組合と同じように考えて敬遠する人もおりますが、透析は「翼の両翼」と言われるように、病院と患者との信頼関係が大切です。透析と自己管理のバランスがとれて、快適な透析ライフが送れます。自己管理には、当然厳しい自己責任が伴います。苦しいときには、会員同士、体験を語り合いましょう。
 患者会は、病院とのコミュニケーションを大切にして、透析医療の向上を目指す良きパートナーとしての役割があると思います。
 私たちは、現在のような厳しい時代だからこそ会員が力を合わせ、1990年代最後の1年を乗り切りましょう。〉

 3月25日、全腎協は「腎疾患総合対策」の早期確立を要望する国会請願を実施しました。東腎協は5万1380人分の署名を持って18人で参加。要請行動の一環として宮下創平厚生大臣に面会、糸賀らは現状の透析患者の抱えている問題、特に糖尿病から透析患者が急増していること、透析患者の高齢化、合併症による重症化が進んでいることを訴え、対策を要請しました。

 4月25日、御茶ノ水総評会館で東腎協第27回総会が282人の参加で行われました。東京都の悪化した財政状況の中で石原新都知事の就任によりさらに厳しさを増す可能性もある透析医療費、透析環境に対抗していくには、東腎協の一層の団結が必要と感じた総会となりました。糸賀は「石原新都知事には都民本位の都政を期待します。マル障、福祉手当の継続には強い関心を持って見守ります。介護保険制度は透析患者独自のサービスについて条例決定を見ながら東腎協として対応します。また、透析医療費の削減、包括化が進められる中で医療レベルの低下につながらないように運動を続けます」と決意を述べました。

 2000(平成12)年4月23日、御茶ノ水総評会館で東腎協第28回総会が295人の参加で行われました。糸賀は「石原都知事の福祉政策の見直しには活発な運動を行ってきました。時には座り込みなど、私たちには厳しいと思える行動もありました。ご協力いただいた会員・関係各位の皆さんには大変感謝します。しかし、結果はマル障改悪など、私たち障害者には厳しいものになってしまいました。一方、4月1日から介護保険がスタートしました。私たちに必要な“移送サービス”を標準メニューに加えるなど運動を続けたい。このような厳しい環境の中で団結を一層深めましょう」とあいさつしました。
 糸賀は、5月に自ら筆をとって機関誌『東腎協』に「後退した都の福祉施策」を掲載してマル障を中心とした障害者福祉施策見直し反対の取り組みを振り返りつつ「医療、福祉の後退をこれ以上許さないために、ますます会員の結びつきを強め、多くの透析患者の結集をはかりたい」と会員に呼びかけました。

 2001(平成13)年7月13日、東京都は「都立病院改革会議報告書」を発表、今後の都立病院のあり方について方向性を示しました。石原都知事の諮問機関としてスタート、中心課題は非公開で進められていました。国の医療保険制度改革で本人の自己負担を3割とする動きがある中で、都立病院の医療体制は、いつでも誰でもが安心して医療を受けられることが重要です。
 報告書の中では、現在16ある都立病院を8に半減し、他は廃止、統合、民営化、公社化にすることを提唱しています。特に問題なのは都立病院で唯一腎不全センターが設置されている大久保病院が西部地域病院として(財)東京都保健医療公社へ経営をゆだね、将来的には、完全に民営化を前提に経営形態を検討すると言われていることです。大久保病院が民営化されることは、都の腎不全医療の後退を意味し、認めるわけにはいきません。東腎協では7月23日「都立病院改革会議報告書に関する要望」として5項目にわたる要望書を衛生局長宛てに糸賀はじめ4人が参加して提出しました。以後、東腎協は都立病院の直営を守り、腎医療の充実・発展を求めて活動を続けています。

 2001年に入ってから糸賀は狭心症が悪化し、ローターブレーターで削ったり、ステントを3カ所に留置するなど体調が不安定なため、森田廣明副会長が会長代行に就任しました。森田は、卓越した指導力で活動をしてきましたが10月16日、心筋梗塞で永眠、69歳で透析歴21年目でした。
 森田は、1993(平成5)年に東腎協の常任幹事に選出され、副会長、東部ブロック長、会長代行を歴任しました。地域では、森山病院友の会会長として若い会員の育成に努力し、東腎協の中核的患者会としての存在に成長させました。また江戸川区腎友さつき会を原三代吉(東腎協副会長)らと結成、行政に訴えてきました。糸賀は、森田についてこう述べています。
 〈森田さんには東腎協の事務所に週2回来ていただき、会報の発送や各種署名の集約作業など、手間のかかる仕事をやっていただきました。また、東部ブロックのブロック長として会員交流会、講演会など他のブロックのお手本となるような活発な活動を行い、多くの参加者を結集しました。委員会では組織対策委員として東部ブロックの未組織の病院に出かけていき、患者会結成に情熱を注いでくれました。
 森田さんは自分の体調が悪い時でも、それを隠して他人の体を気遣うやさしい人でした。私も森田さんと同じように狭心症ですので、私に会うたびに「会長、胸の方は大丈夫か」と自分の胸に手を当てるしぐさをして気遣ってくれました。〉

 糸賀は体調が悪いということで会長を辞めさせていただきたいと要望し、2002(平成14)年4月21日の第30回総会で渡邉忠志が新会長に選出されました。

30年を経た東腎協の発展を
8代会長 渡邉 忠志
 1931(昭和6)年2月20日生まれ。88(昭和63)年12月透析導入。98(平成10)年から東腎協の役員に。2000(平成12)年から副会長に。02(平成14)年4月の第30回総会で会長に選出。

 渡邉忠志は、1931(昭和6)年2月20日生まれ。透析導入は1988(昭和63)年12月で、98(平成10)年4月の第26回総会で常任幹事に選出され、2000(平成12)年から副会長を務めていました。

 栃木県の足尾銅山で親子3代の鉱山労働者の長男として生まれました。鉱山労働者の日常生活として〈昼間は地獄のような労働現場で働き、夜は酒と蛮声で過ごしていました。しかし、共に生きようという思想は仲間意識を育て、連帯の組織を作っていました〉と記しています。

新会長に選出された渡邉のあいさつです。
 〈会員の皆さん、こんにちは、会長の渡邉です。今年は暖かい春で、桜をはじめ春花がいっせいに咲き、人の心も寒さから開放され、幸せな出発となりました。おかげさまにて、東腎協の結成30周年記念総会も240人の会員の皆さんが出席され、無事に終わり、新年度の方針にそって、具体的活動の準備段階に入っております。心よりお礼申し上げます。
 総会で常任幹事29人、オブザーバー3人、幹事102人、グループリーダー9人、サテライトリーダー2人、会計監査2人、相談役1人合計148人が承認されました。常任幹事と幹事は東腎協の牽引車となり、全役員一同会員の皆さんに不快感を与えないよう、賢明な活動を展開することを肝に銘じ、行動することをお約束させていただきます。
 私たち東腎協を取り巻く環境は想像以上に厳しいものと理解せざるを得ません。特に国民に痛みを押し付ける冷たい政治、医療、福祉に関する構造改革のあり方を見ると残念でなりません。
 医療制度改革に盛り込まれている診療報酬改訂にその厳しさがあります。すでに、透析については今年度4月から食事加算の廃止、時間制廃止での一本化、医学管理料の引き下げという3点が実施されました。また、今の国会では医療保険制度の改悪案が審議されています。全国民の負担を拡大しようとしています。医療費の抑制を名目に高齢者医療へ厳しいメスを入れようとすることは許されるべき政治ではありません。透析医療への更なる改革もありうると判断せざるを得ない状況です。
 すでに私たち透析患者は全国で20万人を超え、透析医療費も年間1兆円を超えているといわれています。この現実も見逃すことはできません。しかし、命にかかわる医療は何者にも優先しなければならないはずです。
 私たちは今まで、多くの社会的利益を受けてきました。このことは人間の基本的人権を守るという点から、理解と、支援を受けることができたからです。また、先輩の努力があったからこそ、今日の透析医療が確立されました。これからの活動は透析医療の向上と、命と暮らしを守ることはもちろんですが、社会への還元活動も重要な方向でなくてはなりません。
 特にこれ以上、透析患者を増やさないための予防と医療相談活動、移植推進活動、社会福祉活動への参加、これには通院介護サービスも含まれます。また、各障害者団体との連携活動も重要であります。
 医療現場との交流を図り、自らの体調を守り、仲間の通院の手助けなど、身近な問題からはじめてみようではありませんか。自助努力も大切な社会還元の方法です。
 これからは、組織の内部を強化し、7000人会員とのコミュニケーションを大事にして、運営していきます。会員皆さんのご指導とご協力を切にお願いいたします。楽しさも苦しさもともに歩もうではありませんか。お互いに感情を超越して、同じ仲間としてがんばろうではありませんか。〉

 第30回総会を機に、渡邉新会長を中心に東腎協の新たな発展が期待されています。
 これら会長を支え続けているのが事務局です。現在の事務局体制は以下のとおりです。森義昭事務局長、木村妙子事務局次長、田中助成事務局次長、井上寧枝会計、広瀬憩子事務局員、忙しいときの手伝いに佐々木利喜榮副会長、軽部和之常任幹事、村井靖治、そして新たに橋本晴美が加わり充実されています。また執行部として常任幹事会があり、月に1回の会議や、東腎協活動の実際を担っています。

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 東腎協30周年 あゆみ P13-24


最終更新日:2003年2月11日